2016年11月26日土曜日

そば前

そば前とは、粋な酒の呑み方として、昔からよく言われています。

江戸では、そば屋に入れば、先ず頼むのが「そば前」。(お酒のこと)
それをぐいと引っかけたあと、そばをいただきます。そばの合間に「中割」あるいは「中入り」と称してまた一杯。
その間に、ちょっとつまみを頼んだりして、しめにそばをズズッとすすったあとで、「箸洗い」などと称してさらに一杯のお酒。

ガスがなく薪で釜を焚いていた頃、そばができるまで時間がかかったことから、その間、簡単な肴でお酒を呑んでそばを待つ、これが「そば前」といわれる要因です。

呑み屋さんがなかった頃、そば屋でお酒を呑んでいたことから、そば屋が飲み屋の発祥ともいわれています。






2016年7月21日木曜日

出雲そばの起源

 養老6年(722年・奈良時代)、元正天皇がそばを国の食糧対策の一環として取り上げたことにより、出雲地方でもそばの栽培が始まったようですが、本格的にこの地方にそば文化が根付いたのは江戸時代になってからといわれています。
 松江藩を治めていた堀尾氏に嗣子がなかったことから、京極氏、松平氏と入封されました。
 松平直政公が入封された際、信州松本からそば職人を連れてきたのが、出雲そばの始まりといわれています。
 昔のそばの食べ方は、今のような麺の状態ではなく、そばを団子状にする、今の「そばがき」の状態で食べられていたようです。
 松平直政公が入封された頃からは、そばが今の細長い麺状(そば切り)になったといわれています。
 江戸時代前半の寛文6年(1666年)、出雲そばが「そば切り」として食べられていたことを示す文献が発見され、島根県立古代出雲歴史博物館に展示されています。


2016年6月29日水曜日

割子そばと釜揚げそば

出雲そばの食べ方には、冷たい「割子そば」と温かい「釜揚げそば」があり、どちらもそばつゆをかけていただきます。

「割子そば」
出雲そばと聞いて、丸く重なった器を想像する方も多いのではないでしょうか?
江戸時代、出雲地方の松江では野外でそばを食べるために、そばを弁当のような重箱に入れていました。この地方では当時重箱のことを「割子」と呼んでおり、形も四角いものが多かったといわれています。
しかし、四角形だと隅が洗いにくく、衛生上良くないことから、今の丸い形になったそうです。
そして、食べる直前に器の中にそばつゆを直接かけて食べていました。その当時の形式が今に引き継がれています。
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「釜揚げそば」
全国から神様が一堂に会する10月、出雲大社では「神在祭」が執り行われます。昔はこのお祭りの際に屋台で新そばを、温かい釜揚げそばで振舞ったといわれています。
そばは茹でた後に水洗いしますが、当時屋台で出されていたそばはその都度洗うことができず、釜や鍋から茹でたそばを直接器に盛り、とろみのあるそば湯を入れ、つゆや薬味をかけて食べていたようです。
そのスタイルが今に残り、割子そばと並んで出雲そばの代表的な食べ方となりました。
割子同様、自分でつゆを入れて味を調節できるのが特徴で、そばの栄養が溶け出したそば湯は栄養価が高いといわれています。
諸説あるそうですが、「割子そば」は松江、「釜揚げそば」は出雲が発祥といわれています。

出雲そばとは

出雲地方の食文化の一つである出雲そば。その最大の特徴は、従来のそばと比較して黒っぽいそばとその食べ方にあります。
通常そば粉を作るときは、殻を取ったそばの実を製粉します。殻を取れば色は白くなっていきます。(江戸そばなどは、殻を取ったそばの実を製粉します。また、とったそば殻は、「そば殻枕」の材料として利用されます。)

出雲そばは、使用するそばの実の部位は選別せず、殻(黒い)のついたそばの実をそのまま製粉します。
そのため、色は黒っぽいですが、香り高く、風味と独特の食感のあるそばができあがります。